2021年03月12日
震災から10年・・・当時を振り返る。
現在10位です。被災者の方に黙祷。
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昨日は震災から10年ということで、震災関連の報道に触れる機会が多かったです。
もう10年か・・・当時を振り返ってみます。
嫁ちゃんの実家が仙台なので、震災は他人事ではありませんでした。
会社で地震に遭遇し、でかいぞこれと焦り、ネットで地震速報を見たら震源地が福島!
焦って義母に電話したら、声がひっくり返っており「だ、大丈夫じゃないわよ!」と
言われたのを今でも覚えております。その後電話は不通になり、翌日になるくらいまで
繋がらなかったです。嫁ちゃんからしばらくして「実家に電話がつながらないから
そっちからも電話してほしい」とメールを貰ったので、震災直後につながったよと
返信したらほっとしていました。
当日は電車が止まっていたので、徒歩で家に帰りました。2時間以上かかったけど、
こういう時多少なりとも都心部に近いところに住んでいて良かったと思った次第です。
帰る途中のオフィス街では、帰宅難民が列をなして食事処に並んでおりました。
オフィス街から離れたエリア・・・その頃は保有してなかったですが、東京2棟目が
近所にあるあたりでしたが、そこのカレー屋さんに立ち寄って晩ご飯を食べました。
テレビで津波の映像を見て、とんでもないことになったものだと改めてショックを
受けました。義父・義母ともに海沿いではない地域に住んでいたので良かったです。
震災の直後は福島第一発電所の噂話が錯綜しており、私も一時期真面目に札幌に
避難しようかと考えておりました。結局、インターネットの情報を自分なりに取捨選択し
避難はしないという選択をしました。
震災から数日。不動産系の方が空き家を被災者さんに提供しようというプロジェクトを
立ち上げ、システム構築されて公開されました。私はその頃札幌1棟目〜3棟目までしか
保有しておらず、1R系しか空きがありませんでした。札幌3棟目を登録したところ、
2組の方に実際に避難場所として無償で貸し出すことになりました。家が壊れて住めない
茨城の方と、0歳児がいるので放射能が怖いと避難を選択した千葉の方でした。
慣れない北海道で寂しいのではないかと思い、少し落ち着いたタイミングで札幌に行き
二組と一緒にドライブやうに丼を食べるツアーを企画したりもしたことがあります。
今でも、茨城の方とは年賀状のやりとりが続いています。
それから地震保険。自宅は基礎にひびが入ったりしていたので、ダメ元で地震保険の
保険金請求をしました。うちに来たのは尼崎の鑑定員さん。鑑定員さんが全く足りず、
全国から応援が被災地入りしていたそうです。正直なところ、たいしたヒビは入って
いなかったのですが、親身になって一緒に破損個所を探してくれて、保険が出るよう
配慮してくださいました。その温かさに感謝の気持ちしかありませんでした。
価値観が変わる、みたいな大げさなことは言うつもりはありませんが、それなりに
その時自分なりにできることを模索して、いろいろ考えながらやってきたものでした。
そして、札幌に拠点があったことで「何かあったら札幌に避難すればいい」という
安心感があったのも確かだと思います。あの時の経験がなかったら、今頃札幌自体
撤退していたかもしれません。市場としてはきつかったので。今は多拠点にすることで
震災のような大きな問題が発生した時に、他の拠点の収入が途切れずに入るという
安心を得るための多拠点、という考え方になっています。ほどほどの他拠点は善。
仙台1棟目は震災の後初めて迎えたお正月の帰省時に見つけて購入しました。
このくらいまでが狼狽、投げ売りの最後のタイミングだったと思います。
その後は復興特需で物件価格は値上がりする一方。結局、8年以上仙台で物件を
買えなくなるのでした。
いろいろあったけど、なんとか生きていけていることに感謝しないとですね。
そして、震災で犠牲になった皆様に対して、改めてご冥福をお祈り申し上げます。
皆様の分まで、命を無駄にせず生きていこうと思います。
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